広島牡蠣の歴史

History

縄文人の重要な食料だった牡蠣

広島湾沿岸は瀬戸内海の中でも特に穏やかで、太田川から流れ込む栄養素を含む真水も混じり合い、プランクトンも多く、牡蠣の育成に適したところでした。

縄文時代の貝塚からもマガキやイタボカキなどの貝殻が出土したことからも分かるように、牡蠣は古代の人々にとっても重要な食料でした。その時代、天然牡蠣がたくさん採れたことも想像できます。

470年の歴史がある牡蠣の養殖

歴史ある牡蠣養殖は、時代 とともに技術が進歩していき、よりたくさんの牡蠣を採ることができるヒビ 建法(小石の代わりに木竹に牡蠣を付着させて収穫)が確立されました。

牡蠣の養殖の始まりは、文献によりますと天文年間(1532〜1555)だと言われています。 当時「天文年間、安芸国において養殖の法を発明せり(草津案内より)」というように書かれていて、養殖は石蒔養殖法(いしまき--干潟に小石を並べて牡蠣を付着させ育成を待って収穫)や八重ヒビといった方法が行われていました。

昔から珍重されていた広島の牡蠣

養殖技術の発達でたくさんの牡蠣が収穫できるようになると、地元広島から山陽道などを通って他国へ販売されるようになっていきます。
また、延宝時代(1670年代)には「かき船」による輸送が始まりました。かき船とは、本来は輸送用である船を、販売にも使うというものでした。 かき船は八百八橋といわれるほど水路の発達した大阪に進出。大阪の人々に広島の牡蠣を提供していました。

このように、昔から珍重されていた広島の牡蠣は、今も全国で消費され、現在では日本の総生産量の57~58%程度を占めるほどになっています。